2012年6月9日土曜日



以下引用(太字は済印が附したもの)

三橋 
 ・・・日本人はそろそろ各種の勘違いを改めた方がいいと思います。本当の意味での中間層が太くて、それによって成長できる国というのは、世界にもう日本とアメリカしかないんです。あとは強いて言えば台湾で、残念ながら韓国はもうダメです。
 我々はそれが普通だと思っていますが、そうでないパターンで経済成長する国もあり、それはそれで間違いではないわけですよ。それを、たとえばインドでカースト制度はよくないと言ったり、中間層を育てなさいとやるのは、大きなお世話なわけです。無理矢理やっても失敗して、社会がゴチャゴチャになるだけです。中国も、沿岸部の貴族階級と内陸部の植民地の支配下の人たちで完全に分かれてしまっています。

渡邉
 むしろ、あれはあれでいいんじゃないですか(笑い)。

引用終了

 自動車の製造に関しては大分前に「ドイツと日本」と言われていました。両国の方向は必ずしも一致はしないのですが、製品としての自動車の製造能力ではこの二国が勝者で、他国は個性などで勝負をするしかないと。
 その後、フランスやイタリア、アメリカなどもそれなりに頑張っていますので、現在はどう評価されているのかは分かりませんが、「将来を見据えた開発」という点ではまだ二国が先行しているように見えます。

2012年6月4日月曜日


ジュディス・バトラーは比類ないほど豊かで洗練された反身体理論を構築するとともに、行為遂行的(パフォーマティヴ)な構成プロセスを明確に論じている。バトラーは性的差異という自然的な概念構成を厳しく批判する――すなわち、ジェンダーは社会的に構成されたものであるが性的差異は自然なものであるとする従来のフェミニズムの考え方に、強く異を唱えるのだ。性を自然なものとみなす考え方は、「女性」の社会的・政治的身体[=「女性」という社会的・政治的集団]を自然なものとみなす考え方でもあり、それは、人種やセクシュアリティの点で女性の間に存在するさまざまな差異を副次的なものにしてしまうとバトラーは主張する。とりわけ性を自然なものとみなす考え方は異性愛を規範化し、同性愛者の立場を� ��位におくものだという。バトラーによれば、性は自然なものではなく、「女性」という性別化された身体も自然なものではない。それらはジェンダーのように毎日遂行(パフォーム)されているというのである。女性が女らしさを、男性が男らしさを日常生活のなかで演じる(パフォーム)ように、あるいは性的逸脱者がそれとは違うものを演じて規範を壊すように。(p. 30)

……バトラーは繰り返し、そのようなパフォーマンスは過去の行為の集積の重みと社会的相互作用の両方によって制約を受けると反論している。習慣と同様、パフォーマンスは固定した不変の自然を含むものでも、自発的な個人の自由を含むものでもない。それは両者の中間に位置する、協働とコミュニケーションにもとづいた〈共〉行動の一種なのだ。 (p. 31)

2012年6月2日土曜日


残念ながらありました、あまり報道されなかったですが。

食料などを買いに行って、最初はみんなレジでお金を出していたのですが、レジも停電で止まってるし冷蔵庫もそのうち動かなくなるし、多くの人がやってくるわ、でそのうち何でも持って行ってください、状態になった店もありました。

コープなどの生協は災害時に食料などを放出する契約を結んでいるので、食料の配給などがありましたが