ネグリ、ハート:マルチチュード(下)
ジュディス・バトラーは比類ないほど豊かで洗練された反身体理論を構築するとともに、行為遂行的(パフォーマティヴ)な構成プロセスを明確に論じている。バトラーは性的差異という自然的な概念構成を厳しく批判する――すなわち、ジェンダーは社会的に構成されたものであるが性的差異は自然なものであるとする従来のフェミニズムの考え方に、強く異を唱えるのだ。性を自然なものとみなす考え方は、「女性」の社会的・政治的身体[=「女性」という社会的・政治的集団]を自然なものとみなす考え方でもあり、それは、人種やセクシュアリティの点で女性の間に存在するさまざまな差異を副次的なものにしてしまうとバトラーは主張する。とりわけ性を自然なものとみなす考え方は異性愛を規範化し、同性愛者の立場を� ��位におくものだという。バトラーによれば、性は自然なものではなく、「女性」という性別化された身体も自然なものではない。それらはジェンダーのように毎日遂行(パフォーム)されているというのである。女性が女らしさを、男性が男らしさを日常生活のなかで演じる(パフォーム)ように、あるいは性的逸脱者がそれとは違うものを演じて規範を壊すように。(p. 30)
……バトラーは繰り返し、そのようなパフォーマンスは過去の行為の集積の重みと社会的相互作用の両方によって制約を受けると反論している。習慣と同様、パフォーマンスは固定した不変の自然を含むものでも、自発的な個人の自由を含むものでもない。それは両者の中間に位置する、協働とコミュニケーションにもとづいた〈共〉行動の一種なのだ。 (p. 31)
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……習慣というプラグマティズムの概念とは異なり、クイアな行為遂行性は近代的な社会体の再生産や改革だけに限定されるものではない。性(セックス)をはじめとするあらゆる社会実態は私たちの日常生活でのパフォーマンスを通じて不断に生産と再生産を繰り返していると認識することには、私たちがパフォーマンスの仕方を変えることで、それらの社会実態を覆して新しい社会形態を創出することが可能だという政治的意味が含まれている。クイア・ポリティクスはそうした反逆と創造の行為遂行的な集団的プロジェクトの格好の例だといえる。それは同性愛的アイデンティティの肯定ではなく、アイデンティティ一般の論理を覆すものだ。 (p. 31)
(パオロ・)ヴィルノによれば、工場労働者は「しゃべらない」のに対し、非物質的労働に従事する者はおしゃべりで群れをなし社交的だという。非物質的労働はしばしば言語やコミュニケーション、そして情動的な技術を伴うが、より一般的には言語的パフォーマンスの主要な特徴を分かちもっているという。第一に、言語は常に〈共〉のなかで生み出される。言語は個人によって作られることはありえず、常にコミュニケーションや協働を伴う言語共同体によって作られる。第二に、言語的パフォーマンスは不断に変化する環境のなかで、過去の実践や習慣にもとづいて革新を行う能力に依拠している。 (p. 32)
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ヴィルノは言語的行為遂行性と経済的行為遂行性を結びつけたが、これは言語と〈共〉の三つの関係を浮き彫りにしている。第一に話すという人間の能力は〈共〉、すなわち私たちが共有する言語にもとづいていること。第二に人間の言語行為は〈共〉を創出すること。そして第三に発話という行為自体が対話やコミュニケーションという形で〈共〉のなかで行われるということだ。この言語と〈共〉の三重の関係は、非物質的労働一般の特徴を示している。 (p. 33)
〈私〉と〈公〉の対立を超えて
……反テロリズムや反乱鎮圧の論理においては、最終的にセキュリティが何よりも優先されなければならないため、〈私〉という者はそもそも存在しない。セキュリティは〈共〉の絶対論理であり、あるいはもっと正確に言えば、〈共〉全体を管理の対象とみなす倒錯なのだ。 (p. 35)
民営化は、グローバル経済を支配する主要大国の戦略を決定する新自由主義イデオロギーの中心的要素である。新自由主義によって民営化される〈公〉とは一般に、鉄道や刑務所、公園など、従来は国家によって管理されていた土地・財産や事業体を指す。……すべての財は生産的な利用価値を最大限に高めるために私的に所有されるべきだとまで主張する経済学者もいる。簡単に言えば、社会的領域ではすべてを〈公〉にして政府が自由に監視し管理できル傾向があり、経済的領域ではすべてを〈私〉にして所有権の対象にする傾向があるということだ。(p. 36)
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これ(「所有的個人主義」というイデオロギー)は利害関心や欲望から魂にいたるまでの主体のすべての側面や属性を、その個人が所有する「所有物」と位置づけ、主体のもつあらゆる側面を経済的領域に押し込めようとする立場である。こうして〈私〉の概念は、主体的な者も物質的なものも含めて人間のあらゆる「持ち物」を十把一からげにしてしまうのだ。一方の〈公〉もまた、国家による管理と、〈共〉として維持され〈共〉によって管理運営されるものとの重要な区別を曖昧にしてしまう。(p. 36)
共同体という語は、住民や住民の相互作用の上にさながら主権権力のように屹立する道徳的統一体を指す言葉としてしばしば使われる。だが〈共〉は伝統的概念としての共同体も公衆も意味しない。それはさまざまな特異性間のコミュニケーションにもとづき、協同的な社会的生産プロセスを通じて現れるものである。個が共同体の統一性のなかに溶解してしまうのに対し、特異性は〈共〉によって減じられることなく、〈共〉のなかで自由に自己を表現するのだ。 (p. 38)
これらの共通の財やサービスの民営化に、旧来の〈私〉対〈公〉という対立の構図に陥らずに抵抗するにはどうしたらよいだろうか?
こうした状況において〈共〉にもとづく法制理論または法理論が果たすべき第一の努めは、「すべては市場によって決まる」という新自由主義の原理の虚偽性を明らかにするという、消極的なものである。もっとも狂信的な新自由主義のイデオローグ(この場合は自由至上主義者(リバタリアン))であっても、この原理が包括的であるとは言い切れまい。公共財や公共サービスの民営化は必ずしも全面的な民営化にいたるものではなく、なんらかの形で「一般の利益」や「公共の利益」を維持するための法律が――たとえ公共サービスの有用性や利用を保証する形式的な法規という形にすぎなくとも――必要であることは誰もが認めるはずだ……。(p. 39)
ここで必要なのは――そしてこれが〈共〉にもとづく法理論の第二の努めになるが――「一般の利益」や「公共の利益」という概念を、これらの財やサービスの管理運営への共同参加を可能にする枠組みと置き換えることだ。したがって私たちは、ポスト近代における生政治的生産への転換と結びついた法的問題について、それは公共の利益からさまざまな社会的同一性にもとづく私的管理へと逆行するものではなく、反対に公共の利益から多様な特異性にもとづく〈共〉の枠組みへと前進するものだと考える。 (p. 40)
……〈共〉は新しい主権形態すなわち民主的な主権(より厳密に言えば、主権を転位させる社会的組織形態)を特徴づけるものであり、そこではさまざまな社会的特異性が自らの生政治的活動を通じて、マルチチュード自身の再生産を可能にする財やサービスを管理するのだ。これは公共の事柄(Res-publica)から〈共〉の事柄(Res-communis)への移行を構成するものだといえよう。 (p. 40)
……国民国家間の関係を統治してきた国際法という契約パラダイムは、今や新しいグローバルな秩序形態と、〈共〉性の原理を前提とする(だがすぐにそれを神秘化しようとする)〈帝国〉の主権によって突き崩され、変形しつつある。(p. 42)
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