2012年3月27日火曜日

トレンチ・トレンチ・キス


 朝、ベッドの中で目を覚ました。
 お父さんもお母さんもまだ眠っていた。
 いつもならば、もう一度眠ってしまうような時間なのだが何故かこの日に限って目が冴えた。
 暖かなベッドから出ると透けて見える一月の冷たい空気がパジャマ越しに肌を刺す。
――ぶるり、と体を震わせてからベッドの脇においたスリッパを履く。
 黒猫を象ったスリッパは内側まで温かい。きしきしと鳴る床を歩いて一階に下りた。階段から下りてリビングが視界に入る。
 どうしてだか、リビングの空気が暖かい。
――なぜ? と思ってリビングを覗くと。暖炉に火が灯っていた。
 暖炉の前には安楽椅子がある。そこがずっと前からの定位置であるかのようなオーク材の安楽椅子だ。そして、その椅子にはまるで、椅子に合わせて誂えたような老女が座っている。
「おばあちゃん?」
 声を掛けるとその老女は私を見た。先ほどまでは休んでいたようにみえる、何か一仕事終わって休んでいるといった風だ。
「おや、アンジェかい? 今日はお早いね、どうしたんだい?」
 にこにこと、微笑んでこちらをみている。
「おばあちゃんは何をしてたの?」
「あたしかい?」
 おばあちゃんは視線を私から外す。そして、暖炉とは違う側の壁を見た。
 そこには、一着のトレンチコートが掛けられていた。
「誰のコートなの?」
 見たことの無いコートだった。
 古いようにも見えるし新しいようにも見える。少なくとも言えることは、大事にされているということだ。
「このコートかい、このコートはね……」

 それは大戦の火風の種が広がり始めた時代。空気の中にも硫黄酸化物の匂いが混じり始め敏感な動物たちの気が立ち始めた時代。
 多くの場所で別れがあった。
 立って闘う、とそれだけを自分に任じた者達が大切な物を後ろに置いて立ち上がる。
 大切と思われた物はその背中を見送ることしかできない。
――沢山の別れがあった。


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 ある村で、一人の男と一人の女が向かい合っていた。
 男は背が高くがっしりとした体型で鍛えられているという印象があった。女は男よりも少し背が低いが意志の強そうな目元を悲しみや切なさなどの感情でゆるめていた。
 男は決意したような表情であり、女は大きな何かを抱いている。
――それはトレンチコート。
 男の制服のとなる物だ。
「もう一日だけ」
 女が言って。男の真っ直ぐな視線を受け止める。
 しかし、眼をそらす。
「――ただ一日しか……無いのに」
 たったの一日。――明日になれば男は旅立つ、戻って来れないかもしれない場所に。
「それでも君は」
 男の問いは確認だ。ただ一つ望んだことに答えてくれた女にそれでもなお、問うのは男も不安だから。
 本当ならそんなことは口にするべきではない。
 なぜなら疑うような言葉だから。
――それでも彼らがそれを口にせずには居られなかったのは彼らが幼いからだ。
 頷いての応えに、男はもう一度口を開こうとして。
 けれど、その口から言葉が出ることはなかった。
 女がその口を言葉ごと口づけて塞いでしまったからだ。

 そう、それは火薬の匂いのする時代のありふれた話。

「――じゃあ、そのコートはおじいちゃんの?」
 壁に掛けられたコートを見ながらおばあちゃんに問いかけると、安楽椅子を揺らしながら、そうだよ、と答えてくれた。
 しかし、コートは綺麗なものだ。汚れや破れも見えない。
「大事にされてるんだ」
「? うん、このコートかい?」
「うん、綺麗だから」
 おばあちゃんは膝掛けの下に隠していた右手をだした。
 その手にはブラシがあった。
「きちんと手入れしてやれば、軍用コートなんだ、一生くらいは持つさ」
 枯れ草色のコートはその言葉通りに、年経た貫禄と若さを両立させている。
「もともと、このコートは私の弟の工房で作った物なんだがね」
 軍需産業、と言うのだろうか?
 大叔父様の家は確かにお金持ちだ。
「先に渡して貰って一仕事させて貰ったのさ」
 おばあちゃんに促されてコートを見る。
 前のあわせをめくると裏地がみえる。何人かの可愛らしい妖精のデザインと――。
「巨人?」
「スプリガンさ、古いお話はしらんかな?」
 昔話で聞いたことがあるような気がする。
 大きさを自由に変えられる妖精達の守護者だと。
「おまじない、みたいなもんさ。妖精達と一緒に居るなら、妖精の守護者の加護も得られるかと思ってね」
 カーキ色の裏地と同系色の薄い緑の糸で刺繍が入っているのだ。遠目には解らないだろう。
「おばあちゃんが?」
「そうさ、おばあちゃんのお母さんから針糸の仕事を教わったのは弟だけじゃなかったからね」
 けれど、技術よりも大事な物がこめられているからこそ訴えかけてくる物があるのだろう。


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「――あら、いないと思ったらおばあちゃんとお話ししてたの?」
 リビングの扉を開いてお母さんが入ってきた。
 いつもの朝食の準備をする時間よりもまだ早い。
 そして、壁に掛けられたコートをみる。
「……あ」
 お母さんも知っているのだろうか。このコートにまつわる話を。
「おじいちゃんのコートだって」
 私がいうと、お母さんはうふふと笑う。
 合わせておばあちゃんも呵々と笑う。
「アンジェ、最初はおじいさんのものだった、といっただろう?」
「え?」
 おばあちゃんは、そういってお母さんにウインクを一つ。
「そうね、次にこのコートを着たのはアンジェ、貴方のお父さんよ」

「――」
 パレスには冷たい風が吹いていた。
 宴の空気は散っていき残ったのは寒々とした空気だけ。既に先ほどまで宴の舞台であった部屋の明かりは落とされていた。
 社交の宴に空色のドレス。露出度が低めなのは彼女がそれをさらけ出す気にはならないからか。
 今日の宴は学生達を主役にした物。給仕達の方が年上であるといえるくらいの客層の若さ。
 大人達のまねごとをしているといっても言い過ぎではないだろう。この宴にきているのは多くがお金持ちのご子息ご令嬢だった。
 空色のドレスを着ている彼女もその例に漏れず金持ちの令嬢である。会場を提供した少女の友人として出席していたのだが、彼女はパレスで何かを待っていた。
――寒い空の下で。

「シンシア」
 その彼女の小さな背に声を掛けたのは一人の男。
 帰り支度を整えた男は彼女を呼びに来たようだ。

――彼女は振り返らない。

 振り返らないままに、質問が生まれる。
「今日、どうして迎えに来てくれなかったのかしら?」
「――それは」
 シンシア、と呼ばれた彼女は拗ねたような言い方をする。
 男はそれに答えようとして。
「ごめん、ちょっと、驚かそうとして」
 彼女はまだ振り向かないでいた。
 空を見上げた。夜空には夜天で一番明るい星が輝いている。
「帰りは一緒に帰ろう?」
 ぴくりと、シンシアの肩が動く。
――後一押し。
 緊張している男はその微かな動きに気が付かなかった。
 だから、それを望んだのはシンシアだ。導いて欲しいという願いは、パーティーの最中ダンスを断り続けていた彼女にはそぐわないようにも見えるが、一人の男を待っていたとしたらどうだろうか?
「もっと」
 シンシアは男の度量を試すように言葉を投げる。
「……」
 沈黙が数秒。
 どうして、と思ってシンシアが振り向こうとしたときに。
――ふわりと、彼女の肩に感触がきた。
 それは肌で触れるようなものではなく、軽い感触。
――コートの感触。
 男の体温を感じる。
 そして、コートの上からもう一つの感触。
 それは腕の感触だ。
 コートの上から抱きしめられていた。
――そして、耳元で愛をささやかれた。


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「――」
 お父さんとお母さんの若いときの話を聞くのは初めてだ。
 実際に兄や私が生まれているだけに生々しくもある。
――まぁ、何が生々しいのかはわからないが。
「それで、好きになっちゃたの?」
 と聞くと、お母さんはくすす、と笑った。
「おばあちゃんのお話聞いたんでしょう?」
「え、うん」
「もう居ないけど、おじいちゃんがおばあさんに告白したときに、そして、帰ってきたときにもそのコートを着ていたのよ。だから、おじいちゃんとおばあちゃんの恋のシンボルなの」
「……えっと、うん。それで?」
「お父さんも、そのお話にあやかって一世一代の大勝負にそのコートを着て出てきたの」
 そうですよね、とお母さんはおばあちゃんに言葉をむけて。
 あぁ、そうだね、とおばあちゃんも返す。続けて――。
「あの子が深刻な顔でお願いがあるなんていうもんだから、何かと思えば、あのトレンチコートを着れるようにしてくれときたもんだ。その真剣な眼には覚えがあったさ、なんせあたしに告白しにくる何日か前のおじいさんにそっくりだったからね」
 くつくつとおばあちゃんは笑う。
「でも、おまじないかもしれないけど、意味があったのかな?」
 なぜなら、兄が生まれて私が生まれている。
 それはつまり、父と母が結ばれたということだ。
――なのに、なぜか、おばあちゃんとお母さんは顔を見合わせて笑った。
「どうしたんですか?」
「あの子は――ちょっと抜けてるところがあったからね」
「あらあら、ひどいですね、お義母さん」
 何の話だろうか?
「たぶん、格好つけてあのコートを着ていったと思うんだけどね、でも、――ねぇ」
 おばあちゃんがお母さんに笑いかける。
「なに? なんなのお母さん」
「あのね、お母さんとお父さんは幼馴染みだったの……でね、お父さんと一緒に私もその話も聞いてたの」
――それは、えっと。どういう事かというと。
「あの日、告白をしてびっくりさせようとしてたのかもしれないけど。――コートを着てきた時点であの人が告白しようとしていたのが解ったもの」
――サプライズも台無しだ。
「もしかして、パレスでずっと待ってたのって……」
「お父さんを待ってたのよ、うん、他の女の子に告白しに言ってるんじゃないかと迷いながら寒い空の下で待ってたの、あの人が来てくれるのを」
「すぐには来なかったの?」
「うん、あの人も迷っていたのか勇気を出していたのか、パーティーが終わって一時間しても私のところには来てくれなかった、でも、まぁ、結果はこの通りよ、貴方とお兄ちゃんが生まれてきてくれたと言うのが何よりも幸福な証拠でしょう?」
 くすぐったい言葉だ。
「?」
「どうしたの?」
「ううん、えっと、ってことはこのコートは今お父さんのなの?」
 お父さんは大柄だ。お母さんは小柄で、二人の子供の頃と比べると私とお兄ちゃんは二人の間くらいだそうだ。そのお父さんの背でこのコートを着れば丈が足りなくなるだろう。
 おばあちゃんが、微笑む。
 そして。


 次に起きてきたのはお兄ちゃんだった。
 いつもは寝起きでぼさぼさのはずの髪の毛は気合いが入りすぎているくらいだ。
 ブレザーとシャツの両方に糊がきいている。
 昨日部屋に籠もって何をしていたのかと気になっていたがこれだったのだろう。
 そして。
――あ、と部屋の中にいた三人を見回してからばつが悪そうに視線を落とす。
「あんたの言ったとおりに丈も詰めたし、手入れもしといたよ」
 おばあちゃんがお兄ちゃんに言うと、はずかしそうに。
「あ、ありがとう」
 そういって、時計を見た。時間はまだ十分にある。
 就学年齢に達していない私と違って、お兄ちゃんは地元でも有名な高校に通っている。
 ズボンにもアイロンが効いている、ある意味で新入生の様だとも思える。きちんとしている。恥ずかしさが先に立って初々しい。
 合わせて、浮き足だった新入生を思わせるが、それでは駄目なのではないだろうか。
――多分、いや、多分じゃなく、絶対に。
 お兄ちゃんは今日、人生の特別な日なのだろう。

 お兄ちゃんはお母さんのいれた濃いめの紅茶にミルクを注いで飲む。パンは喉を通らないらしい。
 緊張してるなぁ、と思って。一つ思いついた。
 まだ、時間はある。
 お兄ちゃんが家を出るまで十分くらい。
――間に合うだろうか。

「はぁ、はぁ」
 私は自分の部屋にもどって捜し物をした。
 見つけたときには五分以上が経っていて、慌てる。
 一階に下りると居間でコートに袖を通していた。
――わぁ。
 コートまでを着るとなかなかに様になっている。
 見直した、と言っても良い。
「はぁ、はぁ……」
「――? どうした、アンジェ」
 お兄ちゃんは優しく聞いてくる、若干心の余裕を取り戻したようだ。
 でも、まだ、少し。『もっと』と、お母さんと同じ事を思う。
「こ、これ……」
 私はお兄ちゃんに拳を突き出す。
 決闘、ではない。
――ん? とお兄ちゃんはしゃがんで目の高さを合わせて私の拳を取る。私が拳を開くと、お兄ちゃんの手に握っていた物が落ちる。
 それは。
「鍵?」
 お兄ちゃんは呟く。
 鍵、確かに鍵だ。――正確には鍵の形のアクセサリ。
 もともとは、ネックレスだったものを近所に住んでいるお姉さんが加工してくれたもので、私の宝物である。
「お、おまじない」
「――え?」
「心の扉を開けるの、魔女のお姉さんが言ってた、だ、だから持っていって」
 数秒。内容を理解するのに費やして。それからお兄ちゃんは柔らかい微笑みを浮かべた。
――良かった、もう緊張は無いみたいだ。
「ありがとう、アンジェ」


「……あらあら、アンジェ、よかったの?」
「――? 何が?」
「お兄ちゃんが好きなんでしょう?」
「――ん、だったらやっぱり幸せになってほしいの」
 お母さんの焼いてくれたパンを食べながらそんな話をする。
「さてさて、あのコートの戦績、二勝零敗から、どうなるだろうねぇ」
 おばあちゃんは昨日のスープだけを飲んでいる。朝からパンは重いらしい。
「でも、きっと、良くなりますよ」
「アンジェのお守りもあるしね」
 そうだといいなぁ、と思いながら。

――ところでこの家は女の子のおまじないはないんだろうか?

「恋をしたいなぁ」
 私も小さな声で呟いた。



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