2012年4月6日金曜日

変化とイエス様 - カナの婚礼の奇跡



12ステップ 第1講

御言葉:ヨハネの福音書2:1−11

変化とイエス様


「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。

それがどこから来たのか、知らなかったので、・・しかし、 水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。・・彼は、花婿を呼んで、」(9)

 私たちの周りでは、毎年、新しいものが流行し、目まぐるしく変化してゆきます。 私たちは、いろいろなものを通して、味も香りもない水のような人生を、ぶどう酒のような豊かな味わい、美しい色と香りに満ちた人生へと変えて行きたいと願います。 新しいものを身に着け、財産を追い求め、優れた能力を身に付けるために努力し…。
 しかし、何かが欠けています。目に見える変化はうわべだけで、 私たち自身は何も変わっていないということがよくあります。 私たちは、一時的なものを追いかけている一方で、心の奥底では別の何かを探し求めています。 根本的なものが欠けていたならば、やがて全ては無に帰することを知っているからです。 私たちを本当に造り変える力はどこから訪れるのでしょうか?その答えは意外なところに隠されているのです。

T.私の時は…(1−5)

 1、2節から見てゆきます。ガリラヤのカナで婚礼がありました。そこには、イエス様の母マリヤがいました。イエス様と弟子たちも、 招かれていました。
 婚礼の宴は水曜日から始まって1週間続きます。その間、新郎新婦の友人によって愛の歌(雅歌3:6)が歌われ、踊りや祝福の詩が披露されました。 新郎新婦は花の冠や宝石で飾った華やかな服を身に着け、王や王妃のようなもてなしを受けました。当時、婚礼は人生で最も祝福された日とされたのです。


何が風に " 3つのシートを行います

 しかし、この喜びの時に大変な問題が生じます。宴会の途中でぶどう酒が切れてしまったのです。 これは非常事態でした。 イスラエルには「ぶどう酒がないなら喜びもない」という諺まであるほどで、宴の席で、ぶどう酒は必要不可欠なものだったのです。 ぶどう酒は結婚の喜びを増し加え、分かち合うもの(詩篇104:15,伝道書10:19)と考えられたのです。 そのぶどう酒がなくなったら、どうなってしまうのか…、想像がつきますよね。

その時、一人だけ、問題に気がついた人がいました。イエス様の母マリヤです。

マリヤの祈り − イエス様の御前に −

 人々は宴会を楽しむことだけに関心があり、ぶどう酒がなくなっても知らんぷりです。 イエスの母マリヤも宴に招かれたお客でした。客の一人として見て見ぬふりをすることもできたのです。 しかし、マリヤはこの問題を自分のことのように深刻に受け止めました。宴の当事者と同じ立場に立って問題を受け止めました。 マリヤは誰をも非難しませんでした。 そして、問題をイエス様の御前に持って行きました。ただ、事実をありのままにイエス様に告げました。

「ぶどう酒がありません。」


牧師の略は何ですか

 ぶどう酒がなくなった時、人々は互いを非難したかもしれません。招かれた人々は 「ぶどう酒をこんなに少ししか用意しないなんて、宴会の主人は何やってるんだ?」とつぶやき、 主人は「客が飲みすぎるから悪いんだ。この酔いどれめ!」とつぶやいたかもしれません。しかし、誰かを非難したところで問題は解決しません。
 母マリヤはどうだったのでしょうか?彼女は問題をありのままにイエス様の前に持って行きました。 聖書は次のように勧めます。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだね なさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Tペテロ5:7)。
 私たちは問題の氾濫する時代に生きています。福祉と環境、教育、国の未来、 就職、家庭と親子、高齢者・・・。 ですが、根本的な問題は何ですか?物質的に満たされ、食べるものに事欠かなくても、 たましいに安らぎや喜びを得ることができず、疲れ果てている人々が此の世に溢れかえっています。 心の中に、誰にも打ち明けられない重荷を抱え込んだ人々が溢れかえっているのです。 心の声を聞いて下さる方は誰ですか? 何もかも受け止めてくださる方は誰ですか? その方は、今も、あなたを待っています。

マリヤの祈り − イエス様の時を待つ −

 マリヤがイエス様に向かって、「ぶどう酒がありません。」と言った時、イエス様 は何と言われましたか。4節をご覧下さい。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたし の時はまだ来ていません。」  

 あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。


どのように私は、オンタリオ州に王冠の土地に適用されない

 私は、初めてこの箇所を読んだとき、何か冷たい印象を受けました。何か突き放すような感じがしました。 ここで『女の方』とは、当時のローマの世界で「王妃」「お母さん」を呼ぶ時 使う尊敬語ですから、イエス様の言葉は決して無礼ではなかったのですが、いずれにせよ母親を突き放すようなものの言い方だと感じていました。 この言葉がイエス様の愛に満ち溢れた言葉だと気が付いたのは、ずいぶん後になってからでした。
 母マリヤは問題を自分で抱え込んで思い煩っていたかも知れません。不安に陥っていたかも知れません。 私たちはどうでしょうか?人は自分の抱える問題が思い通りに解決しないと不安を感じたり焦ったりしがちです。 ですが神は時を用意しています。最善の時を…。人の思い煩いとは無関係に…。だから本当は、人は焦る必要も不安になる必要もないのです。
 イエス様は、母マリヤの心の内をご覧になって言われました。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。」と…。 それは母マリヤの思い煩いを取り除くイエス様の言葉です。その言葉を聞いた後、マリヤは全てをイエス様に委ねました。 そして時を待ちました。

しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です。』私の時は、御手の中にあります。(詩篇31:14-15節)

マリヤの祈り − 主の器を用意する −

 もちろんマリヤは何もせずに寝ていたわけではありません。 マリヤは、その時、自分にできる精一杯の準備しながら祈りが答えられる時を待ち望みました。 マリヤはイエス様が働かれる時を待ち望んでいたからこそ、その時のために精一杯の準備をしたのです。マリヤは手伝いの人たちに言いました。 「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」マリヤは手伝いの人達 に、イエス様が言われることが自分の理解を超えていたとしても、その言葉に聞き従うように告げたのです。
 マリヤは主を信頼しきっていました。主の言葉に従うなら、必ず道が開けると信じていました。 ルカの1章38節で、彼女は言いました。「ほんとうに、私は主のはしためです。 どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と…。だからこそ、このときも、手伝いの人たちに、 主の言葉に最後まで従うように助言することができたのです。


U.最初のしるし(6−11)

 時が来ます。6節をご覧下さい。さて、そこには、ユダヤ 人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いて ありました。きよめのしきたりというのは外出して帰った時に、手足を洗うことです(マルコ7:3、4)。 イエス様は手伝いの人達に言われました。「水がめに水を満たしなさい。」 手伝いの人たちはどう思ったことでしょう? 今必要なのはぶどう酒です。水ではありません。 彼らは非常に忙しかったし、井戸は村から1−2マイル程も離れた場所にあるのです。
 しかし手伝いの人たちは、水瓶の縁までいっぱに水を満たして運んできました。 彼らはイエス様の言葉に従いました。彼らはマリヤから言われたことを覚えました。真心を込めて、イエス様の言葉どおりにしました。 彼らの心の水瓶の中には、主の御言葉が縁まで一杯に満たされ、満ち溢れていました。
 さらにイエス様は言われました。「さあ、今くみなさい。 そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」 手伝いの人々は自分達が汲んで来たものが何であるかを良く知っていました。 しかし彼らは従いました。まるで、神の御心に従ったキリストのように、彼らはイエス様の言葉について行きました。「持って行きなさい。」という言葉を聞いたすぐ直後に、 「彼らは持っていった」とあります。その時、不思議なことが起こっていました。

 そう…、水はぶどう酒に変化していました。 宴会の世話役のところに運ばれたものは、すでに、ぶどう酒でした。 それは、常識を超えたぶどう酒、私たちの理性の領域を超えたぶどう酒、 この世のものではない、神から来るぶどう酒…。

 9、10節です。宴会の世話役はぶどう酒になった水を味わってみて、花婿に言いました。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、 悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」


 この世のぶどう酒は初めは素晴らしいものに思われるかもしれません。しかし、十分に飲んでみると、あとに残るのは悪いぶどう酒だけ。 目の前の変化を追い求めても、最後に残るのは虚しさ、失望…。
 ですが神から来るぶどう酒はどうですか?初めは、その価値が見えないかも知れません。 素晴らしさを理解できないかもしれません。しかし最後に本当の喜びが訪れるのです。 主なるイエス・キリストの言葉を信頼するならば、最後に良いぶどう酒が与えられます。 水を汲んだ手伝いの者達は、最後に良いぶどう酒を手にしました。 主に従ったとき、彼らの心の中にぶどう酒が湧き出る泉を発見しました。 心の中に湧き出る尽きることのない泉を得たのです。

イエス様を知るとき永遠のいのちを得ます(ヨハネ17:3)。

 11節をご覧下さい。「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光 を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」

 カナの婚礼の奇跡は最初のしるしでした。イエス様が、人々に最初に伝えたしるしです。 最初に伝えたかったしるしです。人は神様との約束から離れてエデンの園を失いました。人は人生の目的も、存在の意味も見失いました。 この世の人々の心はぶどう酒がなくなってしまった宴会場のようになりました。 その地上に再び喜びのぶどう酒を取り戻すために来られた方は誰なのか…。 その方を信頼した時、何が起こるのか…。全ては最初のしるしで伝えられたのです。



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